@こころのブログ

日々の心のいろいろを、出来る限りその色で綴るそんな日記。

@ゆちこの日記

2016年2月の振り返り

最近のゆちこをつらつらと。

 

①毎月の振り返り、はじめます。

今、自分の周りをちょっとずつ整理しはじめていて。
最近は特になんだか、手を広げすぎていたり、自分の地に足がついていないことからくる、不安なんかにぐわっと飲み込まれることが多かった。

逃げたくなったり、消えたくなったり。
しゅんとしたり、めそめそしたり。

そんな中で、今日はゆっくりと自分デート。
大好きなカフェにノートとペンを持ち込んで、数十ページにかけて
色んなことをつらつらと書き出してみたわけです。

で、この不安が、今を自分で把握していないことから来るなと思った。
「どうにかなる」精神が先行しすぎて、「あ、やばいかも」ということにちゃんと目を向けていなかったり、最悪のパターンを考えられてなかったり。

不安から行動するのは違うと思うけど、でも不安をちゃんと見ようとしないのはまたちょっと違うと思う。

そんなわけでひとつひとつを丁寧に、まずは自分の「現状」をちゃんと知り、受け取って、そしてそこから「どうしたいか」を描くタイミングが今なのだと思った。

 

②このブログのこれから

そして、私のやっていきたいことを整理していくと、やっぱり発信して分かち合っていきたいというのが大きくある。
もうちょっと、私の好きな人たちが作ったものや活動、生き方が誰かの選択肢になるような、そんな動きをしていきたいなとやっぱり思う。

今ちょっとずつ、そんな発信のwebページを作っていて、私のこういう毎日のこしょこしょ話はそこに日々短くともアップしていこうと思って工事中なのです。

でも、このブログは私にとって残しておきたい大切なもの。
そんなわけで、日々のまとまりきっていないぐちゃぐちゃっとしたものや、未編集なものは新しいwebに。
そして、月に一回、「ああ今月はこんな1ヶ月だったなあ」というのを、このブログに残していこうと思うのです。
月の終わりか、月のはじめに。
ゆるゆると、思い出とキモチを振り返りながら。

 

③2月は「しゅん」な月。

2月の私は、前半は福岡→北九州→鹿児島→甑島→鹿児島→東京と移動族。
島ではまた自分の出来なささを知り、ありがたさを知る。

大きい1ヶ月になったなあと思っていたら、なんてこったい。
メインは後半にあったような気がする。

 

さっきもちょっと書いたけど、突如不安がぐわっとやってきたのだ。
不安で眠れないというよりも、不安から逃げたくて長く寝ちゃう、そんな時間がやってきた。

思い返すと、ちょっとした変化があるときはいつもこの「不安時期」がセットでやってきている気がする。もうそんなときはどうしようもない自分でしかいられず、泣きながら頼ったり、電話したり、ふてくされたりと、とにかくめんどくさくなる。

そして、今回の突破口になったのは、その不安をちゃんと見ること。
何が不安なのか、怖いのか。
最悪の想定をしてみると、その解決策も出てくるわけで。
そうしたら、ああ生きてはいけるなと思った、そんな春。

 

④気がついたら、毎日がルーチン的にすぎていっていて。
特に明日にワクワクすることも、昨日より成長した感じも、やってやったぜ感も、跳ね上がるような喜びもなく。
そして、毎日に感謝したり、おだやかに過ごしたり、そんな余裕や余白もなかったのだと思う。
うん、このしみじみできる心の温度と状態がなかったことが、今月の大きいトピックだった気がする。

 

⑤なんとなく、生きてこられていて、流れに乗れていて。
でも、そんな表面をちょっとひっくり返すと、出来ていないことや目を背けていることがたくさんある。たくさんたくさんたくさんある。
部屋の掃除もだし、お金の振込だし、解約手続きをするものもあるし、確認することも実はいっぱいある。
未完了の仕事もあるし、メールの返信を怠っているものもあるし、心に未完了のトゲトゲが気がついたらいっぱい刺さっている。

 

⑥心からすっきり笑えているのかな。
なんだか最近は、ずっと心が曇り空だった気がする。

友達に「最近心境変わった?笑顔のオーラがなんか違う気がする」と言われてドキっとなったけど、振り返ってみると、なんだかそんな曇り空感が伝わっていたんじゃないかと思った。

 

⑦未完了を減らすこと。
一日単位で生ききること。
そして、目指す毎日のデザインに向けて、出来ることを一歩ずつ進めていくこと。

いきなりじゃなくても、ちょっとずつでも。
自分にしか創れない、毎日のデザインをしていくのだ。

 

⑧そんなわけで、ひとつのひとつの未完了。
このブログの更新、done!!

背中の翼が羽ばたいているか

最近のゆちこをつらつらと。
 
①新年が明けてから、一つ変わったことがある。
それは、仕事の時間がぐっと増えたということ。
 

今までは、いかに働く時間を少なくするか、効率よく働く時間を減らすか、といいうことになんだか時間と頭を使っていた気がする。
でも今、仕事をしている時間が楽しくてしょうがない。

それは「何をしているか」ではなくて、「どんな気持ちでいるか」を大切に出来るようになったからかな、と思う。
仕事を丁寧にしている時間は、効率を考えているときよりも心が穏やか。
「工夫」は時間を短縮するためでなく、よりよいものを生み出すことに使いたいんだ、という自分を新しく発見したのです。
 
丁寧に仕事の時間を紡ぐと、心の中の黒いごちゃっとしたものが減っていく。
中途半端にやっていた「どうしよう」がちょっとずつ減っていく。
それは「ふうー♡」っと一息ついたときの、心の穏やかさに繋がるのだと思った。
 

②「友達」という定義について

ある「友達」の活動をFacebookでシェアしようとして、書き出しのところで止まる。
「友達の〜」という言葉の違和感が生まれたのだ。

親友という言葉もしっくりこないし、仲間ともなんか違う。
友達とざっくりくくるとそうなんだけど、広いその「友達」でくくりたくない気持ちもある。


親友でないし、仲間でもない。家族でも兄弟でもない。
そして、
親友であり、仲間であり、家族であり、兄弟でもある。
そんな存在である彼は、一言で言うと「同士」なのかなあ。

友達、とまるっとくくるにはもったいない。
うん、そんな感じなのかもしれない。

「友達」「家族」などは、2人の間にあるものでなく、上からみた2人の位置づけみたいなものに感じる。

でも、私にとって大事なのは、自分とその人との間にあるもの。
それは流れる空気だったり、目に見えない安心感だったり、この人好きっていう、カタチのないもの。
この人はこうだとか、こうに違いない、という期待でもなくて。
まさか!そうきたか!となっても、笑っちゃうような、そんな言葉にならないものなんだろうなあ。

でも、一番分かりやすいのは「友達」なんだろな。
インスタントだけど、嫌いじゃないしな、友達ということば。むしろ好きだしなあ。


③久しぶりに夜テレビを見た。
テレビ=悪、みたいなちょっと流れがある中で、のんびり、ただただ
ソファに埋もれながらテレビを見た。

ネットって、基本的には検索して情報を取りに行く。
だから自分の興味があることは深まっていく。

一方テレビって、そんなの関係なく向こうから情報がやってくる。
まったく知らない国のことを知れたり、興味なかったドラマに出逢ったりする。

そして、そうやってのんびりする時間が至福だったから、
なんか、幸せとか豊かさって、ほんと何をするかではないんだなと思った。


④自分の心の色が今どんな色をしているのか。
そして、背中の翼はぐーっと開いて、ばっさばっさと羽ばたいているのか。

心と、背中。
このバランスが取れていることが、私にとっての心地良いなんだと思う。

どちらかに偏りすぎず。
両方の自分を大切に。

 

2016年がはじまって1週間。
色んなこしょこしょ話が頭の中にいっぱいです。

 

 

「与える」から「共有」の時代へ

最近のゆちこをつらつらと

 

①あっという間に1月も3日が経過。
このお正月はのんびりしたり、本を読んだり、逢いたい人にあったり。
去年ないがしろにしていた「自分の身体と心を慈しむ時間」をたっぷり取れた。
特にゆっくりお風呂に入ったり、山をのんびりお散歩したり、佇んだり。
そんな時間が持てることは、身体を軽やかに、素直にしてくれるんだと思った。
 

②自分の(こっそりとした)特技として、おじいちゃんとお話が出来るということがある。
おじいちゃんはもう他界をしているのだけど、心の中で話しかけると、おじいちゃんとお話が出来るのだ。
勘違いかもしれないけど、私の中でははっきりと、そう「お話」しているのだ。
 
③そして、そんなおじいちゃんの言葉を友達に届けることがある。
昨日友達に言葉を届けたときに出たのが

「与える」から「共有」というキーワード。

 

2016年、世界は大きい転換期を迎える(らしい)。
そのときに大切なのは、一人一人がどんな心の色をしているか。

何をしているのか、ではなく、どんな心の色をしているか。
それは、何もしなくていいんですよ、というわけではなくて
やりたいならやればいいし、やりたくなければやらなくていい。


ただ、一番あなたの心があなたの心地のいい色で
エネルギーを帯びる、そんな時間と瞬間を生み出していくのは
あなたの仕事です、と。

そして、世の中の常識ががらっと変わったときに。
残るものは、「与えたもの」ではなくて「共有したもの」。
 

④自分の中で「与える」=正解 と思っていた部分があったのを
おじいちゃんの言葉ではっとした。
そして、「共有」っていいなって思った。
「与える」って結局は共有なのかもしれないけれど、
なんだかえらそうな感じがちょっと私はしていたのだ。
 
でも、共有って平等。
一緒の時間を共有すること。
お金を、気持ちを共有すること。
感動を共有すること。
分かち合う、と一緒なのかもしれないけど、
共有という言葉がなんだかとっても、今の私にしっくりくるのだ。
 

⑤死にたいわけではないけれど、生きることに執着があるわけでもなかった私。
やりたいこともないし、何を手にいれても、未来にワクワクすることが正直あまりなかった。

でも、共有ってちょっとワクワクする。

「一緒に」という言葉が好きな私の身体の真ん中にあるのは
「人とたくさん共有をする人生を送りたい」ということなのかもしれない。

生まれた気持ちを共有する。
友達の人生で起きていることを共有する。
リアルタイムの、ドロドロとした感情や状況を共有する。


共有は、「共有される」っていうする、されるがない感じが好きだ。

⑥っとここまで書いていて、
ああこれって「聞く」と「話す」にも似ているのだと思った。

そして、一人の友達の顔が浮かぶ。
そんな風に、今の自分の気持ちをまっすぐに共有したい人がいるって
なんだか、心が嬉しいな。

人生に挑みがあるか。

最近のゆちこをつらつらと。

 

①青いお空と、澄んだ空気。
とてもとっても気持ちのいい今日。
そしてそんな今日は、2016年最初の日。
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

 

②「最近のゆちこ」のトピックが、困ったことにたんまりありすぎる。
その瞬間に言葉に出来ていたらいいのだけど、気がついたら今になっていて。
そんな言い訳をしながらも、今のこの瞬間を残そうと思うのです。

 

③何を書こうかなと思ったのだけど、最初に出てきたことばが
「人生に挑みがあるか」ということ。
完全に受け売りのこの言葉なんだけど、今の自分を奮い立たせてくれる、とてもとっても大切なことば。

④2015年、いろんな場所に住んで、色んな人にお世話になりまくった。
年間1/3以上はきっと誰かの家に泊めてもらっていたし、ご飯もたくさんご馳走になった。
そして、自転車、洋服、道具、そして車まで、たくさんのものを貸してもらった。

出来ると思っていた自分が、本当に今は全然出来ていないことを知った。
それどころか、からっぽスカスカな自分にがっかりすることもたくさんあった。
そして。
今はそうであることを認めるけど、ここからは今から作れるぞという、なんか心やお腹からエネルギーが沸いてくるような、そんな感覚があることも、知った。

⑤甘えん坊で、「ありのまま」や「無理しない」などの言葉を盾にのほのほ生きてきた私。

そして、それはそれで◎。
それを心から感じられて、むしろ無理した自分でいることのつまらなさや、人との関係の薄さも知った。

そして今。
だからこそ、なんだか今は、それでもいいならば、自分はどうしたいのか、という「心の声」にもっともっと寄り添おうと思っている。
足りないからどうこうではなく、「どうしたいのか」という心の声。

私は、もっともっとやりたいことがある。
怖いけど、もうちょっと、やりたいことがある。
感じたい感情がある。体験したいことがある。
そんな、素直な気持ちにちゃんと耳を傾けられるようになってきた。

⑥出来るふりをしてきた、出来ない私。
でも、そんな出来ないふりをしている、やりたい私。

偽りなく、自分らしく。
でも、もっと描く自分や世界に、挑んでいく。
そんな新しい「挑む」姿勢に、生きることがとても楽しみなのです。

 

そしてやっぱり、描く世界は温かくて。
笑顔がいっぱいで、偽りがない。
その世界に対して挑むことは、大きい小さいではなく、やる内容ではなく、
まずは自分自身の在り方や、約束、姿勢だと思った。
まっすぐに、まっすぐに。

友達が言ってくれて嬉しかったことば
「ゆっちには邪気がない」。
そんな自分でもっといたいから、まっすぐに気持ちのいい心で挑んでいこうと思うのです。

⑦12月は、たくさんの発見があった。
人との関わり方、人との位置関係が向かい合うから横並びになったことも、とても大きい発見のひとつ。
私は私の描く世界を見つめ、隣の人もその人の描く世界を見つめる。
その中で、一緒の輪を作ったり、励まし合ったり、笑い合ったり、ほっとしたり、癒されたり。

そんな関係を楽しみながら、見つめる先はその相手ではなく、描く世界。

そしてそして、そんな描く世界って、きっと繋がっていて、一緒だと思うのです。
 

⑧あまり目標を立てるのが好きではなかった私。
でも、今年は目標を立ててみた。
決めたことをやる自分でありたいから、やらねばではなく、やりたいから。
そんな、本当はやりたかったことに挑戦できる2016年。

⑨こんなとりとめなく、心がだだ漏れのこのブログ。
あとから振り返ってみて恥ずかしくなることもあるけれど、
その瞬間の自分の記録として、2016年今この瞬間の自分を残していこうと思う。

⑩2017年は、どこで誰と、どんな風に迎えるのだろう。
心の底から呼吸ができていて、青い空が心にちゃんと反映されている、
そんな自分で1年後あれるように、軽やかに笑顔で挑んでいこうと思います。


このブログを読んでくれている、本当に少ない大切なみなさま。
とかいって、明日には全く違うことを言っているかもしれませんが、
それでもそんな私に懲りずに温かく一緒にいてくれてありがとう。
今年もこんな私ですが、どうぞよろしくお願いします!

 

ただいま、じぶん。

最近のゆちこをつらつらと。

 

①ただいま、東京。
なんだかんだと、1ヶ月ぶりに。
東京へと帰ってきた。

東京に着いたときに、腰がこれほどまでに...!というほど痛くなって、
ひーひー言いながらおうちへ帰ったのだけど。
家族の優しさにじんわりしたら、腰が柔らかくなっていた。
(と、ともに、きっと運動不足が原因だと思うので、そこは頑張ろう)

いつも東京に帰ってきて思うのは、
東京が好きということ。

私が生まれ育った土地であり、家族がいて、逢いたい人達がいる。
一番見慣れた景色は、家の前の坂道だし、駅までの山道。

色んな場所に行くのも、人を尋ねるのも好きだけど。
「ただいま」と言える場所は、東京にもあるのだ。

 

②この1ヶ月はまた、色んなことがあって。
なんどもブログを書こうとこのページを開いたのだけど、全然指が進まず、
そのまま閉じることが何度も、いや何度も何度も何度もあった。

そして、昨日その理由が分かったのだ。
私は最近、心の扉をぴったりと閉じていたのだ。
無意識に、びしっと閉じきっていて。
頭と口と、身体全体ではなくて、本当に上の方しか使っていなかったのだ。
 
③人と話すことに、なんだかワクワクしない。
そう思っていたのは、自分が頭だけで話をしていたから。
「どうすればいいのか」「こうなったらどうしよう」など、自分の身体は全然動かしていないのに、あれやこれやと、頭と口だけで会話をしていた気がする。
実際に動いて感じている生の話はそこにはなくて、頭でこねくり回した空想の世界の話がそこには溢れていた。

一言でいうと、ものすごい甘えていたのだと思う。

④昨日大切な友達に、久しぶりに逢えた。
そこで彼女が、「流れにのったら真剣に取り組む」と言っていた。(たぶん)
帰りみちに、私はなんの努力もせずに、流れを待ち、流れがやってきても、そのあとも誰かがどうにかしてくれると、そんな風に最近思っていたのだと思った。
真剣に取り組むことを否定して、ゆるゆると身を委ねるという言葉を言い訳に、盾にして。 

 

私自身は、なんにも取り組んでいなかったのだ。

 

どっちが正解というわけではないけれど。
「自分がどうしたい」「それにむかって行動する、真剣に」ということを、ここから改めて大切にしたいなと、そんなことを思うのです。
人の意見に左右されたり、評価に一喜一憂したり。
それは、自分が何かに向かっている感覚がないからおきるのであって。
まっすぐに、自分の大切にしたいこと、ひと、ものに向かって、今日の自分が出来ることをやり尽くして、眠りにつきたい。

いまさらと、恥ずかしくもなるけれど。
でも、今ようやく気がつけたのだから、今から、今から。
 
甘えるのが悪いわけではなくて。
自分が心地良く、生きることが私にとっては大切で。
それには、今、ちゃんと自分の意思で、こころで、決意で、人生をデザインしていこうと思うのです。

⑤自分の人生に、自分で責任をもつこと。
どうしたいのか、どうなりたいのか。
そして、それにむかって、楽しく、笑顔で、何に今取り組むのか。

豊かさを感じながら、たっぷりと生きること。
心を開いて、私らしく、ガハハハっと幸せに生きること。
それは、何をするかが大事なのではなくて。
自分が、自分を好きでいられる、そんな自分でちゃんといること。
心をひらいて、青空を見上げて、空気を吸い込んで、
そして笑顔いっぱいで。
自分ができることを、勉強して。
自分ができるようになりたいことを、学んで取り入れて。

そう、久しぶりに、心がパーっと、長い長い曇り空から突き抜けたような感じ。
 
⑥甘えまくりでも、頭だけでも、そんな私でも一緒にいてくれる人達がいる。
だからこそ、そこに甘えるのではなくて。
そんな人達がいてくれるからこそ、自分の命、可能性、自分自身を、もっともっと
世界に分かち合って、色とりどりに生きていこう。
  
⑦そんなわけで、久しぶりの、ぐるぐるぐるぐるぐる時期が、ようやく終了。
今回もたくさんの人にお世話になったなあ。ありがたや。

自分の足で人生を作っていく、立っていく覚悟が、
なんだかようやく、小さい胸に宿りはじめた、いま、この瞬間。
 
⑧そして、そんな人生には。
やっぱり私は、ひとが重要で。
改めて、大切な人を大切に出来る自分でいたいと、そんなことを思うんです。
そう、結局は、そこに戻ってくるのです。
 
⑨ああ、なんだか。
ただいま、じぶん。

すらすらと話しているときの言葉は、今の自分の心から出ているのか

最近のゆちこをつらつらと。

①昨日から、鹿児島県甑島にきています。
甑島は2回目だけど、観光地化されていない、本当に「島」らしい島。
夜真っ暗な海を見ながら、一人でぼーーーーっとする贅沢さがたまらんのです。
一人になれる場所って、実はあまりないんだな。

 

②昨日、一緒にプロジェクトに関わる仲間達と、地元の方と一緒に飲んでいて。
絞り出しながら、言葉を発しているときと、
すらすらと話しているときがあるな、と。
気心しれた友達ではなく、初めましてだからこその、まだ初々しい距離感が(多少なりとも)ある中で、言葉に詰まるときと、すらすら。
この違いは何だろう、と。

③すらすら話しているとき、それはもう過去に話した言葉をなぞっていることが多いのではないかと思った。
「今やっている仕事のこと」

「人生の転機」

「人生で大切にしていること」
今まで何度か聞いてもらっていること、聞かれ慣れていることが、
いつのまにか言葉がテンプレートしているということに昨日話しながら気がついた。

そんなときは、今の自分が話しているのではなく、
過去の自分が話ているのであり、
それはもう話し方の抑揚の付け方までなんなら決まっていて。
まるで台本がある喜劇みたいに、すらすらすらすらすらすらと、相手の求める答えをかっこよさげに話しているのだ。

そして、過去の自分が感じたことを、人と話す中で決してアップロードされることはない。

 

④今まで生きてきて、自分なりに答えが見えたものと、まだ分からないものがある。
仮説でも、答えが出ていることは整理させているので、話すのが簡単で。
そしてそれは、ある程度(相手にとって)「話せてよかった」と言ってもらえることも多い。

そしてそれとは別に、まだ分からないもの。
今まさにうずまいていて、途中経過のような、ふつふつとしているような。
自分が話している中で自分が発見しちゃうような、そんな話になるときもある。

相手にとって、こんなまとまりのないこをと話して申し訳ないな、
そんな気持ちで溢れる、あの感じ。
今までそんな時間をよしとしていなかった自分にも、気がついた。
人と話すときは、ちゃんと答えがないといけないと思っていたのだ。

でも、昨日はちょっと違った。
まさにそこには、その瞬間のライブ感がある言葉が溢れていたのだ。
荒削りで、回り回っていて、とりとめがなくて、
言葉に自信がなくて、相手の反応が気になって、言ったことをちょっと後悔しちゃうような、そんな「LIVE」感のある言葉達が溢れたのだ。

それが、人と話すとき、その瞬間を一緒にいること、なのかもしれないな。
そんなことを、ふと思った。
ライブ感のある言葉は、おもしろい。


⑤何かを解決したいわけでもなく、心の中にある、まだ言葉になっていないもの。
カケラ達かもしれないし、カタチになっていないかもしれない。
でも、そこにその人の心の色がある気がして、まだ他からの色が足されていない、自分やその人にしか出せないそのままの色がある気がして、その色に触れてみたいと
思う。そう、ただ、そこに触れてみたいだけ。一緒にその温度を味わいたいだけ。


⑥人と話すときに、その答えは用意されているものなのかどうか。

これから、そこをちょっとしたときに意識していこうと思う。
毎回その瞬間の自分の、心で話せるような。
毎回違っていても、今のその瞬間に感じていることを。

目の前の人と交換しあう、そんな話し方をしたい。

⑦そんな朝思ったことの、忘備録。

「紹介する/される」にある、上と下の関係性。

最近のゆちこをつらつらと。

 

①「人の上下関係」について、最近考えることがあった。
ここでいう「上下関係」とは、会社の上司と部下などではなく、人としての「上」と「下」。

 

なぜこんなことを考え始めたのかというと、それは本当に些細な、友達のこんな一言がきっかけだった。

「ゆっち逢った方がいい人いるから紹介するよ」と。

 

例えば、私が何か新しいことを始めたくて。
そして、誰か経験がある人を探している、という場合、この「紹介する/される」という構図は納得がいく。

美味しいラーメン屋さんの店主さんを紹介してください。
取材したいので、こういう人いたら紹介してください。
このときの構図にも、納得がいく。

しかし、その時は何故か違和感が残ったのだ。
 

②そのときそんな違和感を感じたのは、「紹介する/される」に、人としての「上」「下」を感じたからなのだとそのあとにはっと気がついた。

その一言によって、その友達の中で
紹介する人が「上」であり
私が「下」である。
そう、私の心は感じて、そして勝手に拗ねたのだ。


③そんなこと、その友達は思っていないかもしれない。
そして、何よりも、自分自身が人に対して「上」とか「下」とかを、無意識のうちに持っていた、ということにこのことは気がつかせてくれた。
いや、気がつかせてしまった、なんて綺麗な言葉ではおさまらない。

なんと、そんな自分に気がついて「しまった」のだ。


④自分に自信がないと、色んなことがきにかかる。
そして、自分の存在を肯定するために、そして安心するために。
人の位置づけを、無意識のうちにしてしまっていたのだ。

「上」と思う人には意見を請い、
「下」と思う人には上からものを言う。

そしてそのバランスにより、自分は肯定された気持ちになり、
自分は世界に欠かせない人なんだと、思っていたのだ。
(実際には、思わせてもらっていた、のだ)

⑤自分でいい、と思いながら。
「下」に見られたくない、という自分に出逢う。

出来ない自分を受け入れているようで、
受け入れている自分はすごいと、出来ない自分を受け入れている自分を用意していたにすぎないのではないか。

ガラガラと、色んなものが崩れていく。


⑥「どんなあなたもすばらしい」

果たして、心底そう思っていたのだろうか。
どんなあなたもすばらしい、(と思っている私はきっとすばらしい)となってはいなかっただろうか。

⑦出来ない自分を受け入れるのが、正直とても怖い。
出来ない自分だと思われることも、正直とてもとても怖い。

それは、自分が一番、そんな自分を実は知っているから。
ハリボテに作ってきた、そんな自分を見抜かれるのも、本当の自分をさらすことも、
とてもとっても怖い。

 

⑧「人のいいところしか見ようとしない」と、昔お姉ちゃんに言われたことがある。
自分も、相手も。

怖いけど、そんな怖さをかかえたままで、色んな人の感情や色を見ていきたい、と思っている。


⑨相手にとって、「上」でも「下」でもどっちでもいい。
そう、心から思えるときに、周りの評判ではなく、自分自身で自分の人生のハンドルを握れるのではないか、と思う。

出来ているようで、私はまだまだ自分の人生のハンドルを、誰かに任せてしまっている。


⑩私は、私。
なんだか呪文のように唱えたくなった、
そんな風が気持ちのいい、帰り道。