すごい、すごくないという判断軸。
今のゆちこをつらつらと。
①すごい、すごくない。
先日のフォーラムは、ゲストスピーカーが話す、参加者が話す、という繰り返しの形で。
あたしはその進行の仕方が好きだし、今までもトークライブを自分達でやるときは、こういう形をとってきた。
でも、自分の感覚的に、同じなのになんか違う、そんな感じがしていた。
この違いは何なんだろう、と。
そしてその答えは、フォーラムの中の西村さんの言葉で見つかった。
「ゲストスピーカーも1人の人。ここに参加している人も、1人の人」
ゲストスピーカーだからすごい、あんな経験こんな経験してるからすごい。
そんな感覚があった自分にハッとした。
自分の場作りにおいても、ゲストスピーカーはすごいという、なんだろなんか特別な感じがきっとあったんだなと思った。
参加してくれてる1人1人も一緒なのに。
②あたしは見栄っ張りだし、すごいと思われたいとずっと思って生きてきた。
すごいと思われることは、自分の揺るぎない位置や居場所を確立出来るんだと無意識に思っていたのかもしれない。
そして、それは人に対しても、無意識にすごいすごくないの判断軸を持っていたんだと思って、心臓がきゅってなった。
③すごいという、形のない基準。
いい、悪いではなくて。
すごい人かどうかではなく、1人の人としてもっとその人といたい。
あたしも、みんなも、世界に1人。
混ぜても溶けない関係性。
今日のゆちこをつらつらと。
①人との関係性について
人との関係の深さをつくるのには、何が関係しているのだろう。
(関係を深い浅いの表現が適切なのかは分からないけど、分かりやすいので今回は使用)
そんな問いがあった昨日、友達とお好み焼きを食べながらそんな話をした。
そして、食塩水の話が自分的にすごいしっくりきた。
濃度が薄い食塩水でも、たくさんたくさんあれば、必然的に塩の量は多くなる。
これは、時間をかければ、ある程度の塩(関係)はできる、ということ。
すーーーんごく薄くても、少しづつは、増えていくのだ。
同じように、すんごい濃い食塩水だったら、もうそれだけで塩の量は多いことになる。
いっぱいの時間を使わなくても、その共にした時間が濃ければ、いっぱいよ薄い時間をかけた量、もしくはそれ以上の塩の量になる。
人と向き合うとは、よりこい食塩水の時間にする、なるということなんじゃないかと、そんな話になった。
②たくさん会う人もいれば、年に1度会うか会わないかの人もいる。
でも、その人との塩の量は、回数ではない。
たくさん会うことだけが、関係が深いわけでもないし、会わないからといって、薄いわけではない。
③そんなときにいつも思うのは、高校時代の親友のこと。
今はこれこそ年に1度会うか会わないか。彼女には子供がいるし、当時は同じような毎日を送っていたけれど、今は全く違うライフスタイルを送っている。
でも、だから彼女との関係が薄くなった感覚があるかというと、正直なくて。
それは、一緒にいられるその時に、たくさん濃い時間を過ごせたからだなと、思う。
高校時代、これでもかってくらい、彼女と一緒にいられて、よかった。
④そんな話を友達にすると、それはもう、手でかき回しても溶けない食塩水になったんだねって。
なんか、この言葉にすごいしっくりきた。
⑤あたしは1人だし、会いたい人もいっぱいいる。
そして現実、会えてない人もたくさんいる。
出会えば出会うほど、一人一人に思いを馳せられる時間は少なくなるという意見も、ごもっともだと思う。
だからこそ、今、その瞬間、目の前にいる人との時に、100%いたい。
いつか会えることを前提にせず、とにかく、その時を大切にしたいと、そう思うのです。
高校時代の彼女との時間のように。
一緒にいられる、その瞬間だけが、確実なものだと思うから。
⑥それが、今日思う、人との関係性についての、あたしの頭の中。
⑦その濃度を濃くする方法ってたくさんあると思ってるけど、今のとこ、心から、お腹から話すことが1番知ってる中では濃くなる気がしていて。
だからこそ、ど真ん中を交換したい。話すと、聴くを使って。
⑧あ、ハグをする、笑う、一緒にいる、肩の力を抜く、体験する、他にもいっぱいあるかも。
「こと」を目的にしないということ。
2015年もよろしくお願いします◎
最近のゆちこをつらつらと
①気がつけば、最後の更新から一ヶ月近くも経っていて。
なんだか一瞬のような、ゆるゆるしていたような、振り返るとそんなような時間を過ごしていた。
何度か書きたいなと思ったときがあったのだけど、言葉にしていくとなんかちょっとかっこつける自分がいて、それはなんだか違うんだなーと思って消したり。
基本的にこのブログの文章は、頭を通過せずにお腹から湧いてきたものを、指が動くままに残している、そんな感覚。
だから、久しぶりに去年のブログを読んでみて、ちょっとびっくりしたり。
「面白いじゃん・・・!」って。
そんなわけで、日々やってくる面白い考え方や新しい世界感を、やっぱりこうして残すのは面白いなーと思うのです。
②働くということ
12月のゆちこの世界のメインテーマは、「働く」ということ。
このブログにどこまで書いたか忘れちゃったけど、働いている時間って、自分以外の誰かの為に命を使っている時間なんだなーって思ったのが12月。
そして、パラグライダーしたり、ボルダリングしたり、今多くの人が「体験」することにお金を使っているのに対し、働くとは、なんと「体験」ができて、色んな感情や経験を味わえて、しかも報酬までもらえるという、なんてミラクルなんだ!と思った。
③例えば、カフェで働くこと。
カフェで働くという「経験」もさせてもらえて、人とも出逢えて。
そして喜んでくれる人がいて。
そしてそして、報酬までもらえちゃう。なんてこった!と驚愕した。
好きなことをして、人を喜ばせることをしてたら、なんと経済も循環されるということ。
ね、これってすごいことじゃない??
④2014年は、その日暮らしで生きたらどうなるのか、という日々だったと思う。
行きたいと思ったら行く、逢いたいと思った人に逢う。
何度もお金ないなーと思って死にかけたけど、でもいつもそのタイミングで必要な人が現れてくれたり、助けてくれたり。
おかげさまで今日も生きていられているので、頂いた分笑顔で元気に心から生きていこうと思います。
⑤そして、こんな感じで生きても生きられるということが分かったので、2015年は更にアホに、軽やかに、そしてニッコニコに、生きて行こうと思います。
⑥ことしもどうぞ、よろしくお願いします。
生まれてきてくれて、生きていてくれて、ありがとう。
最近のゆちこをつらつらと。
①前、私という看板で生きるのFBページにこんなことを書いた。
ーーー
私が今生きているのは
「生きているだけでいい」と
心から友達に対して思ったことがあったから。
「生きているだけでいい」という言葉が
一ミリのウソもなく
この世界に存在するんだと教えてくれた彼女は
私の命の恩人です。
ありがとう。
ーーー
そして昨日、そんな「友達」の結婚パーティーが開催された。
②そこにはたくさんの人の笑顔があって、どれだけ2人が愛されているかが分かる、そんな時間だった。
そして、その場があるのは、2人が出会えてきた人のおかげであり、その出会えてきた人が、それまで出会えてきた人のおかげであり・・・と思うと、もうそれってすごいことすぎて、なんかちょっと震えた。
③前にチャリティーサンタのなっちゃんも言っていたけれど、今のこの瞬間なんて、誰かが一本電車を乗り遅れたからあるもので、奇跡なのか必然なのか、いろんなすべてが繋がって今があるんだと思った。
そして、」もしその電車に滑り込んで乗れていたら、もしかしたらまた違う今があるかもしれなくて、そしてそれはそれで、奇跡であり必然と言っているのだと思う。
④AかBか、迷うときがある。
でも、AでもBでも、いいんだと思う。
それならば、選んだ方を笑顔で生きると決められるほうを選びたいなと最近は思う。
出来事や選択自体にはそんな意味はなくて、結局はそこで感じる感情なんじゃないかな。
どちらにせよ、何にせよ、幸せだなって思えればもうそれでよくって、
それはAでもBでもCでも、何でもいいんだと思う。
だからこそ、一番そう自分にとってそう思える道を、選べばいいと、思う。
⑤その友達が最後スピーチで
「今日の一番の恩返しは、私が幸せな姿を見せていくこと」と言っていたけれど、
そうそう、そうだなと思った。
そしてそれは、今生きている誰しもにいえることで、
一番の恩返しは、幸せに生きることだなと、私は思う。
⑥「楽しい」の次に「嬉しい」があるよ
数年前に、犬飼ターボさんに言われたことば。
「ゆっちは今人と「楽しい」で繋がっているよね。でもね、その上には、「嬉しい」があるんだよ」
当時はその言葉の意味がよくわからなかったけど、最近ちょっとずつ、これかな、と思うことが増えてきた。
「楽しいーーーー!!!」も好き。
そして、もういろんなことがあって、途中喧嘩したりも色々あって、でもそれを全部ひっくるめての、「嬉しい。」
この、「嬉しい」をともに出来る仲間がいてくれる今、
しーあーわーせーーーーー!!!わっほい!
みたいなのとはまた違う、
あああ、幸せだなあ。じんわり。
みたいな幸せも感じることができている。
色々な幸せの色を感じることができていて、それは日本の四季のようで、
すごくすごく幸せだと思うのです。
⑦スピーチをやらせてもらって、写真をみたら、
顔がまんまるまるだったので、ああ、可愛くなりたいなと、
久し振りに思った、そんな最近。
どこでも生きて行ける、その感覚は人を強く、自由にする。
最近のゆちこをつらつらと
①約3週間の福岡滞在が今日で終わった。
あっという間のようで、たくさん濃かった。
話したいことがたくさんたくさんあるようで、なんか何にも話さなくてもいいような、なんだか不思議なそんな感覚。
3週間どんなことがあって感じたかは、今の私に全部凝縮されていると思うから。
今の自分に、その全てが詰まっていると、そんな風に思ったり。
②日常であり、非日常
やっぱりこの感覚がとても大きかった。
私は東京に住んでいるから、東京にいるのが日常、旅に出るのが非日常と考えがちだったけど、そんなことなくて。
どこにいても、何をしていても、「生きる」という日常であり非日常があるだけだった。
毎日が特別であり、特別でなくて。
それはつまり、場所ややっているものことじゃなくて。
すべては、「生きる」という彩りなだけなんじゃないかな、と思った。
③どこででも生きて行ける、という感覚。
今回お世話になった上毛町で出逢った方々は温かくて。
笑顔が素敵で、出来ることが多くて、生きる「知恵」が豊富だった。
そして、私が今回そんな上毛町のみなさまに頂いたプレゼントの一つは、
「あ、どこででも生きて行ける」という、確信だった。
④それは私にとって革命的に大きい気付きだった。
だからこそ、自分に正直にまっすぐ生きればいいと思った。
ただただ、誰に気に入られるためでもなく、嫌われない為でもなく、評価を気にすることなく、まっすぐに。
だって、どこでも人はやりなおせるから。
もし、どうしようもないと思っている人がいるなら、これだけは言える。
違う場所に行くという、選択肢があるよ、と。
そしてそこでは、どんな自分としても新しくスタートすることが出来るよと。
もし、もしもう生きるのが辛いなと思っている人がいるならば。
どうせなら、その前に、違う地でなりたい自分として生まれ変わればいいんじゃないかと思う。
人はいつでもいつからでも、変わることが出来るし、やり直すことが出来ると思った。
⑤今の仕事を失うことを恐れていない
一緒にワーキングステイをしていたぐっさんの話が面白すぎて、それはまた別にまとめたいくらいなんけど。
ぐっさんが
「こういうのに参加する人って、今の仕事を失うことを恐れていない人だよね」
と言っていた。
それは自分に対する自信なのかと言われると、そうとも言えるし、そうでないとも言えて。
私の場合は、なんかよくわからないけど、世界に対する信頼な気がする。
それは、まだまだよく分からないし、それに期待をしているわけでもなくて。
なんか、そんな感じ。
⑥色んな経験が、自分の人生に色々な色を加えてくれる。
明るい色も、暗い色も、その幅があるほどに、色んなグラデーションを奏でられるようになり、そして他の人のその微妙な色の違いにふっと気がつくことが出来る気がする。
何の為に生きるのかなんてまだまだ分からないけれど、
私はこの「生きる」この瞬間を、やっぱりたっぷり味わう日々に幸せを感じながら生きて行きたい。
⑦あ、そして。
どこででも生きていけるには、やっぱり「健康」があるから。
健康だったら、お手伝いも出来る。
だから、やっぱり何より大切にすべきは、健康だと思う。
⑧「しごと」って何だろうと、この3週間よく考えた。
そして、「しごと」って、誰かの為に自分の命である、自分の時間を使っている時間のことなんじゃないかなって、思った。
それはお金が発生するしないに関わらず。
そう思うと、とても「しごと」をしている時間って、愛しいものだなって思った。
自分を独り占めせず、周りの人に分かち合っている時間だから。
それって、すごいよなーー。
⑨自分じゃなきゃ出来ない仕事について
よくフリーランスで働くというと
「自分じゃなきゃ出来ない仕事を持たなくては駄目だ」
と書いてある本や意見をしてくれる人に出逢う(気がする)
そして、最近はそれも大事だし、もしかしたらそれと同じくらい、
「誰がやってもいい仕事を自分に依頼してくれる」
事のありがたさを感じている。
誰がやってもいい仕事を、この人にお願いしようって、
それってなんか、実はすごいことなんじゃないかな。
そして、そう思ってくれる人に、ああお願いしてよかったって思ってもらいたいから
力をつけたり、一生懸命いい仕事をしようとすること。
なんかそれって、すごい嬉しい循環なんじゃないかなと、ふと思った。
⑩専門性がこれってなくても。
逢いたいと言ってくれる人がいてくれて、一緒にやろうと言って下さる人達がいて。
だからこそ、もっと力をつけたいなと思う、それでもいいんじゃないかと思う。
そして、今この順番を感じられる自分は、幸せ者だと思うのです。
⑪今回の滞在を経て、今の自分に興味があることが見つかった。
ドキドキするような、でも、それも日常であり非日常であるような。
何をしても、私の毎日の一ページであることには変わりなくて、
それをどんな色をつけるのかだけだなと、思う最近です。
人生はいつもいつでも、過程でしかないんだから、と思う。
最近のゆちこをつらつらと。
①日常と非日常なんてなくて、全部が日常。
福岡県にきています。
3週間、田舎に住んでいます。
そして今はファミレスでパソコンをしています。
旅が好きだったときは、とにかくその期間にぎゅっと予定を詰め込んでいて。
名物のこれを食べる!このお城は行く!みたいな。
でも、今回は「生きる」をしている、そんな感じ。
日常の場所が違うだけで、ここのあるのは日常。
そして、生きるということは、結局全部が日常なんじゃないかな。
②名物を食べるより、地域の方の手作り蜂蜜のが美味しい。
お城に行くより、一緒に薪割りをした方が感動する。
入場料を払う手のいれられた作られた場所よりも、もうなんともいえない色が混じり合った紅葉のトンネルにはっと息を飲む。
幸せは、感動は、旅の醍醐味は、こういうところにあるんだと思う。
③「旅」をしに行くのではなく、「暮らす」をしにいく。
そこに、本来旅に求めているものがあるんじゃないかと思う。
名物を食べるとか、城に行くとかのいいところは、
「ここ行きましたー!食べましたー」っていう、人との「共通」が増えやすいこと。
有名だから、共通体験として繋がりやすいとこ。
⑤でも、「○○さんと一緒に薪割りした」という経験は、すんごいニッチだけど、その共通項だけで一瞬にして、お友達になれると思う。
例え一緒にやってなくても。
経験談だけでも。
それってすごいこと。
⑥レンジ(幅)をつくる
東京もいいし、田舎もいい。
高いレストランもいいし、安い牛丼もいい。
でも、下も上も、全部を体験することで幅が出来るからこそ、好きを選べる。
そう話してくれたのは、今一緒にこの町で活動させて頂いてるぐっさん。
話がとても面白くて、ぐいぐい引き込まれてしまう。
⑦色々な経験をすることは、「これもいい」を増やすこと。
それは増えれば増えるほど、誰かの「これがいい」をいいねと思えるということ。
そして、その中で、「これが『すき』」が出てくるのだと思う。
それって、「いい」「わるい」で選ぶのではなくて、「すき」で選べるようになった瞬間なんだと思う。
「これがいい」が、自分にとってよければよいほど、他人に押し付けてしまっている場合があると思う。
お金がない生活がいい。
都会より田舎がいい。
仕事ばかりの人は可哀想。
最近特に、そういう場面に出逢うことが多いからこそ
「都会より田舎がいい」はあくまで「その人にとって」であり、
「都会より田舎がすき」なだけであって。
それをあたかも、正解かのように言うのは、結局一番世界を狭くしていたり、「都会はだめ」「都会に住む人は分かっていない」のように、世界に正解不正解をつけているんじゃないかな。
みんなが笑顔であればいいのだからこそ、どっちもいい。
そう思える人が増えれば、いいなと思う。
⑧同じ感じで、「仕事はほどほどがいい」という思想も最近よく出逢う。
「毎日終電で働くなんて間違っている」という目で見る人もいる。
でも、毎日終電で働くくらい一生懸命生きている人は、それはまた素敵だなと私は思う。
ライフワークバランスがどうだとかよくいわれているけど、
働き過ぎなくらい働くときもあって、気がつくこともあると思う。
かといって、働き過ぎなときがなくても、もちろんよくて。
つまりは、どっちでもいいし、何でもいい。
人間はいつもいつでも、「過程」でしかないんだから、と思う。
⑨私が働きすぎて心と身体を壊したときに、ひとつ思ったことは。
「この経験があったから」ということを強調しすぎないようにしようということ。
もちろん、あの経験があったから今の自分があって、ものすごくものすっごく感謝をしている。
そして、あの時がなかったら、間違えなく今の私はいなくて。
必要な出来事だったのだと、今は思う。
⑩でも一方で、なくてもよかったと思う。
きっとあの経験がなくても、幸せに呑気に生きていたと思うし、それはそれで違う悩み煮出逢い、毎日を一生懸命生きていると思うから。
一番怖いのは、例えば私が「あの時があったから」を強調しすぎることで、「ああいう体験をしないと」という思想を人に無意識的に与えてしまうことだと思う。
⑪だから、なんでもいいんだと思う。
人はしたい経験はきっとすると思うから。
そして、それはしたいからすればいいけど、別にしなくてもいいなとも、思う。
(まだ言語化するのが難しいんだけど、雰囲気そんな感じ)
⑫「楽しい・楽しくない」は周りが用意してくれることであって、「楽しむ」は自分でどうにでもできる。
だから人生はどうであっても、楽しむと決めて楽しんでしまえば、もうそれは全部が楽しい事になる。
生きるとは、自分で人生をつくることであって、色んな色を楽しむことじゃないかと思うんだけど、それすらも、選べるんだと思う。
⑬4つ入りのクッキーを2人で買って食べたら、すんごく美味しかった。
2つを他の友達にあげようと思って取っておいた。
もう一個食べるのは簡単だけど、取っておくことで、4人が幸せになれるし、
それが美味しかったら、4人がまた買いに行くかもしれない。
そんな日常が、なんだかすごい幸せだなと、思った。
⑮カフェにいった。その前に寄ったマーケットで買ったパンが劇的に美味しかったので、お店のお母さんにお土産の一つをプレゼントした。
そしたら、お礼にクッキーをくれた。
そのクッキーを、そのマーケットを教えてくれた方にプレゼントした。
これって、幸せの循環だなと、ほれぼれした。