@ゆちこのブログ

ゆっちのいろいろを、出来る限りその色で綴るそんな日記。

@ゆちこの日記

「こと」を目的にしないということ。

最近のゆちこをつらつらと。
(※今の頭の中をつらつらと書いた、いわば自分のための忘備録てきなものです、今回はさらに。
まだまだ途中経過だからこそ、今この瞬間に感じていることを、残しておきたくて書いたということを、いつかの自分のためにも書いておきます)
 
 
4日間、奈良で行われた「人の居場所を作る人フォーラム」に参加してきました。
一言で現すとしたら、ほんと行ってよかった。それにつきる、そんな時間だった。
 
こんな内容で、こんな話でって参加したかったけど出来なかった人にシェアしたいなと思うけど、
それはすでに私のフィルターが入ってしまっていて、書き起こせばおこすほど違う形になってしまうのだと思った。
だから、私が言えるのは、この4日間を経て私がどう感じたかということと、どういうこれからを送っていくのかの、それだけなんじゃないかなと。
 
最終日の一番こころに残ったのは、「人と向き合う」ということだった。
そのゲストスピーカーの話をきいて、人と私は向きあってはないなということを、なんだか強烈に感じた。
人ともっと向き合って生きて行きたいな、そんなことを思った。
 
そして、人と向き合うとはなんだろう。
そんな問いが頭によぎった。
 
全部が終わって、たまたま西村さんとお話をする機会があった。
私はそのときに
「人の話を聞いているときに、自分に意識が向いている感じがしないのは何でですか」と質問をした。
その時の西村さんの答えは、
「この人が考えていることに意識があって、そこにCPU全部使っているから、自分のことを考える余白がない」だった。
(いや、実際には違った言い回しをしていたと思うんだけど、ニュアンスがこんな感じ)
 
その答えがどうだったということではなくて。
私が何気なくした質問に対して、西村さんに私は「向き合ってもらっている」と感じたのだ。
 
聞いてもらっている、答えてもらっているという感覚ではなくて、向き合ってもらっている、という経験。
言葉にするとまた形が変わってしまう気がしなくもないのだけど、とにかくそんな感覚と経験がそのときにあった。
 
 
私はなんだか、ただ嬉しかった。
それは、お会いしたかった西村さんという人に逢えて話せたという嬉しさではなくて、
一人の人が、私に向き合ってくれているというその感覚自体が、なんだかとても嬉しかったのだ。
 
 
そのあと友達と電話をしながら、向きあうとはなんだろうと考える夜が続いた。
 
で。
朝起きたときに、なんだかひとつ頭に浮かんだ、そして自分にとって確信めいたことがあった。
それは「向き合う」ことがしたいということは、すでに向き合っていないんじゃないかと。
「向き合う」という「こと」がしたいというだけで、その人をもっと知りたいとか、なんかそのもともとのものじゃない気がしてきたのだ。
 
向き合う「こと」がしたいわけじゃない。
人のことをもっと知りたい。
その人がどういう考えを持っているのか、自分とは違うからこそのそれを知りたい。
なんだか、そんな感じ。
 
 
 
西村さんに質問したときの話の一つで、
「自分の考えに全て持って行ったら、自分の世界は広がらない」というお話があった。
考えが違う人の話をきくこと、それこそが生きる楽しさだって。
 
色んな人と出逢えば出逢うほど、自分と同じような感覚の人がなんとなく分かるようになってきて。
違うなと思う人とはあえてコミュニケーションを取ってこなかった自分がいる。
そして、そんな色んな色眼鏡をとっぱらって、人間というものをもっと知りたいという気持ちが今むくむくと湧いているのです。
 
「人に興味がある」と思っていたし言っていたけど、それは人に興味がある自分に結局意識があった気がなんかあって。
でも今、今この瞬間の私は、人という違う不思議なそのものに、なんだかとても関心があるのです。
 
 
人と自分との間に、今までとは違う世界がこの先になんだかある予感がしていて、
胸がなんだかときめく、そんなナウ。
 
 
そして。
向き合うというのは、枝葉であって。
向き合ってても、向き合ってなくても、私が幸せで、自分の色の輝きを放てていれば、それでいい。
そんなことにも気がつかせてもらったそんな体験でした。
 
 
うん。
言葉にすると、湧いていることのカケラも現せないのがなんだかもどかしいけど、
カケラだけでも、残しておこう。
嘘くさいコミュニケーション(関わり)は、もうしないんだ。