「紹介する/される」にある、上と下の関係性。
最近のゆちこをつらつらと。
①「人の上下関係」について、最近考えることがあった。
ここでいう「上下関係」とは、会社の上司と部下などではなく、人としての「上」と「下」。
なぜこんなことを考え始めたのかというと、それは本当に些細な、友達のこんな一言がきっかけだった。
「ゆっち逢った方がいい人いるから紹介するよ」と。
例えば、私が何か新しいことを始めたくて。
そして、誰か経験がある人を探している、という場合、この「紹介する/される」という構図は納得がいく。
美味しいラーメン屋さんの店主さんを紹介してください。
取材したいので、こういう人いたら紹介してください。
このときの構図にも、納得がいく。
しかし、その時は何故か違和感が残ったのだ。
②そのときそんな違和感を感じたのは、「紹介する/される」に、人としての「上」「下」を感じたからなのだとそのあとにはっと気がついた。
その一言によって、その友達の中で
紹介する人が「上」であり
私が「下」である。
そう、私の心は感じて、そして勝手に拗ねたのだ。
③そんなこと、その友達は思っていないかもしれない。
そして、何よりも、自分自身が人に対して「上」とか「下」とかを、無意識のうちに持っていた、ということにこのことは気がつかせてくれた。
いや、気がつかせてしまった、なんて綺麗な言葉ではおさまらない。
なんと、そんな自分に気がついて「しまった」のだ。
④自分に自信がないと、色んなことがきにかかる。
そして、自分の存在を肯定するために、そして安心するために。
人の位置づけを、無意識のうちにしてしまっていたのだ。
「上」と思う人には意見を請い、
「下」と思う人には上からものを言う。
そしてそのバランスにより、自分は肯定された気持ちになり、
自分は世界に欠かせない人なんだと、思っていたのだ。
(実際には、思わせてもらっていた、のだ)
⑤自分でいい、と思いながら。
「下」に見られたくない、という自分に出逢う。
出来ない自分を受け入れているようで、
受け入れている自分はすごいと、出来ない自分を受け入れている自分を用意していたにすぎないのではないか。
ガラガラと、色んなものが崩れていく。
⑥「どんなあなたもすばらしい」
果たして、心底そう思っていたのだろうか。
どんなあなたもすばらしい、(と思っている私はきっとすばらしい)となってはいなかっただろうか。
⑦出来ない自分を受け入れるのが、正直とても怖い。
出来ない自分だと思われることも、正直とてもとても怖い。
それは、自分が一番、そんな自分を実は知っているから。
ハリボテに作ってきた、そんな自分を見抜かれるのも、本当の自分をさらすことも、
とてもとっても怖い。
⑧「人のいいところしか見ようとしない」と、昔お姉ちゃんに言われたことがある。
自分も、相手も。
怖いけど、そんな怖さをかかえたままで、色んな人の感情や色を見ていきたい、と思っている。
⑨相手にとって、「上」でも「下」でもどっちでもいい。
そう、心から思えるときに、周りの評判ではなく、自分自身で自分の人生のハンドルを握れるのではないか、と思う。
出来ているようで、私はまだまだ自分の人生のハンドルを、誰かに任せてしまっている。
⑩私は、私。
なんだか呪文のように唱えたくなった、
そんな風が気持ちのいい、帰り道。