@こころのブログ

日々の心のいろいろを、出来る限りその色で綴るそんな日記。

@ゆちこの日記

想いの押し売りをしない

突然に思い出したことを、つらつらと。


「うちはお芋を洗うのも手作業、そのほかも基本的に手作業でやってるんです」と、以前見学させて頂いた芋焼酎を作る酒蔵の方が言っていた。

「でも、それを特には言わないし書かないし伝えないようにしています」と。


手作り=良い!機械=悪!みたいな風潮が(私は)どこかあると思う。

当時私も想いあるものを!とか、丁寧に作られたものを!とか強く思っていたタイプ。

そんな時の酒蔵さんのこの言葉はガツンとやってきた。

「どこの酒蔵さんも美味しいものを作ろうと、お客さんに喜んでもらおうと試行錯誤している。機械をいれると品質があがったり、少し安く提供できたり、効率がものすごいあがったりする。それが企業努力。その一方で手作りですよとうたってしまうと、そのほかの酒蔵さんの印象を悪くしてしまう可能性がある」


企業努力、そうか、そうだよなあ。

みんな喜んでもらえるように努力していて、その一つが機械を入れるということかもしれない。機械=悪と思っていた私はとても恥ずかしくなった。


トーリーが見えにくい、と友達がコンサルの人に言われたと相談してきてくれた。

イジメにあってたからイジメを世の中からなくしたい。

親のトラウマがあるからそれを解放する方法を伝えたい。

自分の経験は、ものごとを起こす時のものすごいエンジンになると思うし、分かりやすいから共感も得やすい。


でも彼女の楽しそうだから、でもいいんじゃないかな、とも思う。ホワイトなエンジンでも、軽やかにぶんぶん進めるんじゃないかな、と。(私もこのタイプだからそう信じたいというきもちもきっとある)


想いの起源がなんであっても、手作りでも機械でも、そこから生み出されたプロダクトが愛が詰まっていて、触れた人が嬉しくなっちゃうものならば、いいんじゃないかなあ。

よいものを届けたい、というそのキモチ。

当たり前のようにみんなが持ち続けられる世界がいいなあ。

九州暮らし2年生が始まります

去年の昨日、トランク一つとリュックという軽装で、私は門司港駅へと降り立った。
友達(とんちゃん)が軽トラでむかえに来てくれて、新しいお家(とんちゃんちの隣)まで帰ったことを思い出す。

夜になったら知らない女の子などがぞろぞろっととんちゃんちにやってきて、
気がついたら私のいらっしゃいパーティーが開催されていた。

まだリアルに思い出せる、あの日から一年。
というか、あれからまだ一年。

 

とんちゃんと昼から料理したり、お出かけしたり、気がついたら友達が引っ越してきてくれて2人暮らしが始まっていたり。お風呂がないからみんなで銭湯に通ったり、小倉まで仕事しに行ったり。何よりも門司港は歩いているだけでとても楽しい街。たくさん歩いて歩いて、夜も散歩をたくさんした。(そのことはとても痩せた)

気がつけばとても不思議な毎日で、今思い出しても楽しかったなあとほっこりする。
そこから恋をして色んなまさかの展開があって、わずか4ヶ月で門司港のお家を出て中津での暮らしが始まった。

わずか4ヶ月だったけれど、私の人生において「ただいま!」と帰れる場所が出来た。
「何をしている」とか、「こういうこと出来ます」や「これに興味あります」みたいな人との繋がりではなく、「この地域に住んでます」という人との出逢い方は、私にとっては心地よさが溢れていた。きっとこの地域に住んでいなければ出逢うことのなかった方々との出逢い、友達との出逢い。「同じ学校にいても友達にはなってないだろうなあ」という人を最初の印象で判断せずに深くしっていくチャンスがあるというのは、地域というくくりのある素晴らしさだなと今書きながら湧いてきた。

ちなみに今私は「ツキイチヨコイ」という活動をさせてもらっている。
内容は月に一度、門司港でお店をやりますというもので、私自身が月に一度は門司港に帰りたいし、みんなにも会いたいし、みんなが集うきっかけを作れたら嬉しいなと思って今年の1月よりスタートした。
定休日のカフェをご厚意で貸して頂き、私は中津の野菜を持って料理をしにいく。
細く、でも長く。
この街に好きな人がいるかぎり、ただいまと言いにこの活動を続けていきたいなと思っているのです。「よこいーおかえりーー!!!」がとても嬉しいから。

 

この前打ち合わせで、風の人と土の人の話になり、昨日はそのことについて色々と考えた。
私は今、土の人としての活動量を増やしている。今住んでいる場所が好きだし、もっともっと知りたいなと思っている。この街で暮らし続けていくために、自分が欲しいと思う場所作りを今している最中だ。

遊びにくるにはとてもいい場所だと思うこの街。
暮らし続けるにはどうだろう、それはまだ答えが出ていないのが正直で。
私は自分がま~本当にいい!と思うものしかいいと言えない性格だからこそ、
この街を「まーじでここは暮らすのにいいよ!」と言いたいんだと思う。
そしてだいすきな人がこの街を気に入ってくれて、ご近所になって、一緒に畑したり遊んだり企んだり創ったりワイワイしたりしながら、そんな輪を大きくしていけたらいいなと思う。まだまだかなり妄想だけど、そんなが超テンションあがる。

 

あとは、毎日に疲れちゃったときとかにふらりと遊びに来られる場所にしたい。
畑仕事とかやることはたくさんあって、そんな毎日の中で自然にも癒やされて。
悩むときって自分の価値を見失いがちだと体験談から思うけれど、こっちにくるともう元気に身体が動くだけで出来ることがたくさんある。3時間ただ悩むなら、3時間草を狩って欲しいと思っている人がたくさんいる。

そんなところに、きっとピンと開くものがあるのだと思う。

 

というわけで、そんな妄想をむふむふしながら、まずは一歩ずつ。
この街で自分の仕事を作っているみんなとシェアオフィスとカフェを始めます。
これからプロジェクトを生んでいきたい人の実験の場になったら嬉しいし、
人が繋がる場になってこの街に相互支援文化が生まれたらもうニマニマ。

そしてカフェと雑貨エリアでは地元の人も外から遊びに来てくれた人も出会えて、
ガイドブックでは分からない生の情報や人を繋ぐことが出来て、
この街がいいなと、また帰ってこようと思ってもらえるそんな一つの場所になれたらいいな。

全部が繋がっているのかいないのか、無計画にもほどがあるけど。
でも、自分が欲しいと思ったものを、自分たちで作っていく。
九州暮らしの1年間で変化したのは、「暮らしを作っていく」という感覚なのかもしれないな。

話すという贅沢

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今私は鼻歌を歌っていて、こころがドキドキそわそわしている。
心からただただ漏れ出した気持ちを丁寧に扱ってくれる。
今関東にいる友達とミーティングをしたのだけれど、そんな彼らの優しさに胸がなんだかいっぱいで、ありがとうと、ドキドキと、そわそわと、うきうきが混ざり合っている感じ。なんだかくすぐったい、そんな感じ。

 

日々の暮らしの中で、大切にしたいものの順位が変わった。
自分が譲れない部分も、ある種頑固なくらいこだわる部分も。

自分ってなんて小さくて無力なんだと思ってた頃。
自分の可能性を引っ張り出してくれる方々に出逢い、私の出来ることが増えた。
そしてそこから調子にのって、なんかどんどんと天狗になっていき不義理な自分に違和感を覚えながらもそれにも気が付かずにただただ前に向かっていた。
そして今、一つ一つに丁寧さを込めること、一人一人と丁寧に向き合うこと。
これ以上でもなく、これ以下でもないと思うようになった。

自分が無力でも天狗でも、そんなことはある種どうでもよくて、
目の前の人やしごとやものごとにただ誠実にありたいなあ、と決めたら、そんなことを考える時間が圧倒的に少なくなった。

もちろんまだまだウダウダ悩んだり出来ていないこともたくさんあるよ。
ただ昔と違うのは、それを悲観するのではなく、現在の自分を受け入れて、やることは変わらない、と思うようになったこと。今この瞬間できることは一つだけだし、そこに命を精一杯使うだけだなあ、と。

 

来月自由大学でお話をさせて頂く機会を頂いた。
一緒にその時間を過ごせる方々にとって、何か小さくても心にひっかかるものがあるといいな。キレイにまとまっている編集されきった言葉達ではなくて、生で逢えるからこそのリアルなその瞬間に生まれる温度と黒や灰色なども含まれた幅広い色がある、そんな言葉をそこにぽんっとおけるといいな。
ゆっちは自由に話してねと言ってくれたその言葉が、
キレイにまとまってないその感じがいいと言ってくれたその言葉が、
こんなにも荒削りな自分をまるっと許してくれるその場自体が、
その講座に一緒に参加するみんなにとっての最大のギフトなのだなあと思った。
いいなあ、参加する人。とてもいいなあ、と心から思う。

今日もゆっくりとしたいい1日だったなあ。
では、おやすみなさい。

 

神様はいて、いつも優しく助けてくれる。

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お天気が良い今日の午前中に、ちょっと弱音をこぼしたら電話をしてくれた友達がいる。(以後神様)
この神様は私の話を聞いてくれ、ブレーキになっている点を一緒に突き止めてくれて、どうしたいのかを引き出してくれた。
そして「私はこうしたかったんだーーーー!!!」ということが分かって、そう出来るようにまずは話し合ってくる!と決めたときから、ぐぐぐぐぐぐっとプロジェクトが加速した。嬉しさとワクワクさを伴って。

こんなふうに、困っているときに助けてってヘルプを出すと、どうしたのかねと手を差し伸べてくれる神様がいるということ。

彼女が私にくれた彼女の1時間という貴重な時間。
それは私のそこからの何時間もの彩りを変えた。

 

打ち合わせのあとに農家さんのお家へふらっと遊びにいったら、キャリーいーーっぱいのみかんを頂く。ちょっと見栄えが悪いから売れないというイチゴをご近所のイチゴ農家さんに頂き、
そのおすそ分けをと立ち寄った旦那の実家で結局ご飯をご馳走になる。

時間だったり、経験だったり、その人自身の才能だったり、美味しい果物だったり、幸せな時間だったり。
こんなに嬉しいものを私は頂いて頂いて頂いて生かされているんだなあ、と胸があつくなる。

 

世界は優しい。
ありがとうたくさんの神様。

 

大分暮らしが始まってから、この「頂く」という機会がものすごい増えた。
さて、自分は何があげられるのだろう。まだまだ分からないからこそ、何が出来るのかな、という気持ちを常に持ち続けて生きていくことは出来るよな。

ただただ旦那の自慢

朝起きたら旦那はすでに仕事へと行っていて、リビングに行くとゴミは捨てられベランダには洗濯物がなびいていた。

結婚してもうすぐ4ヶ月、私の旦那は本当にすごい。

好きな食べ物はと聞くと「うどん」といい、お弁当いる?と聞くと「お米と塩だけのシンプルなおにぎりがいい」という(簡単)。

手の込んだものを作るとものすごい喜ぶけれど、チャーハンとか煮込みうどんとかの10分料理でも美味しいなあ、と嫌味なく笑う。

ご飯を食べたら必ずお皿を洗い、お茶かたまにカフェラテを淹れてくれる。
「じゃーん」といってお菓子を添えてくれることもある。

タバコも吸わずギャンブルもせず、車で5分の職場からまっすぐに帰ってくる。
趣味は将棋。お酒は飲めるけれど、付き合いで嗜む程度で夜遊びもしない。

私が一人で旅に出てる間は勝手にうどんを茹でて食べてくれるので準備もいらず。
出発前に見ぬふりしていた不在票に電話をして、私の荷物を引き取ってくれている。

私の激しい感情の起伏のどちらをもまるっと抱きしめてくれる。
私のテンションが落ちて暴れたときは、布団の中で「話したくなったら話してねー」と背中をさすってくれる。
しばらくして落ち着いて振り向くと、背中をさする反対の手を使いスマホでマイペースに将棋をしている。

こんなに嫌味がない人がいるのか!と一緒にいればいるほどびっくりするし、
こんなに他人に自分の真ん中を左右されない人がいるのか!とも驚く。

仕事をしてなくても家事をしなくても1日中漫画読んでだらけてても帰ってきてご飯作ってなくても掃除してなくても不機嫌でもどんな私の状態でも、なんにも変わらず旦那はマイペース。罪悪感が溢れてごめんねって言うと、そんな日もあるよねってこれまた嫌味なくさらっと言う。

 

 

「結婚してよかった?」と友達に聞かれて旦那との毎日を考えてみた。
でも一番結婚してよかったなと思うのは、こんな旦那に何かあったら、妻であれば私にまず連絡が来る、ということかもなあと思う。
連絡がないということは、一緒にいなくても元気だということだと思うから。
そしてこれは、結婚という制度を使い家族になれたからだなあと思うから。

と、リビングですやすや眠る旦那の横顔を見ながら書いてます。
酔ってるわけではないんだけれど、こんなときもあったなーといつしか思うかもしれないから、忘備録として(笑)。

 

けんけんのけん

週末は山口・島根へひとり旅。

 

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色んな友達が全国に移動し、暮らしを作っていっている。
金谷時代からの親友けんけんは、今島根県に。

顔見れて少し話した段階で、もうやってきてよかったって思った。
けんけんは、まっすぐ前を向いていたから。

ーーー
Instagramに書いた言葉より】

けんけんに逢いたくて、萩から車を飛ばして島根県津和野市へ。
久しぶりにあった彼は、にじみでる優しさはそのままに、身体の中心に強さを帯びていた。

デザインも場作りもWEBも言葉を綴ることも大工しごともこなすけんけんは、とても器用な人間。
器用貧乏なんてことばがあるけれど、その器用さをけんけんは最大限に活かしていた。どれもが彼の強さとなり、どれもが重なりあって「けんけんのしごと」が生まれていた。

一緒に悩んでもがいて話して描いた3年前の金谷時代。
そこから色んな経験を重ねたけんけんは、まっすぐ前をむいていた。

私が帰りたくなったのは、すごく嬉しかったからだと思う。
ふと横を見ると、まっすぐ前をむいて進んでいるけんけんがいるからだ。

一緒のことをやってなくても、同じ道ではなくても、
そういう存在がいてくれることがとても嬉しい。
ーーー

きっと今もけんけんは彼の創りたい暮らしや世界に向けて、おしごとをしているんだと思う。自分を大事にするも、休むも、作業するも、全部がおしごと。

 

言葉にして残したいのに、言葉でこねくり回さずにただただ前を向いて一歩一歩進むけんけんの姿に触れたあとだと、全てが陳腐に思えてしまう。

言葉がなくてもちょっと触れたら伝わってしまう。生き方として、生き様として。

 

今の私をあのときの私が見たらなんて言うかな、と帰りの車で思った。
やっぱり生きていてよかったでしょ、とドヤ顔かなあ。

あのときの私に伝えたいことは何かなあ、とも考えた。
色々あるけれど、帰ってきたら可愛い旦那が待ってるよ、かなあ。

 

自分を大事にするということ

今のゆちこをつらつらと。

 

①今日は朝から「よこいツアー」を開催。改めて本当にいい場所いいお店がいっぱいだなあと私もしみじみした一日。
そしてやっぱり悩んだりしたときに、自然の中でぽつりと珈琲を飲みながら話すことってすんごいすんごいいいなあと思った。途中の彼女の涙や表情がガラリと変わり瞳が輝く瞬間に、なんて人は愛しいんだと思って私も泣きそうになった。こうやって目の前の人に集中して過ごせる時間って本当に贅沢。

 

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②昨日ブログを書いたらどんっと心が開いて、大好きな人にとにかく大好きを伝えたくなった。そして、大好きな気持ちに蓋をしないってもうなんてすんばらしいの!!とひっさしぶりに小躍りしたくなって、実際にくるりと踊った。
「自分が元気でいること以上の仕事はない」と前に決めたことを話しながら思い出したけど、まさに自分の心が小躍りくるりしているときは世界の温度が優しくなる。
表現するってやっぱりいいな。読んだよって連絡くれたみんなに頭があがりませぬぜ。ありがとう。

 

③この半年くらい「自分を大事にする」というはやりの言葉を実験してきて、私にとって「自分を大事にする」ということは「自分のことばかりを考えること」ではないことが分かった。あくまで、私にとって。
自分の気持ちを大切に約束をキャンセルしてみたら、そんな自分は私は好きではなかったし、それは私にとっての「自分を大事にする」ではなかった。

「大好きな人を大好きでいる!」という、大好きな人を大切に出来ていると思ったときはもうそんな自分が大好きになるし、だから人を大切にするのは自己犠牲でもなくその人のためでもなく、私の自己満足なんだと思った。そしてそれが私にとっての自分を大事にすること。自分ファースト、は好きな人ファーストしている自分をファーストにできていること、だった。

 

④私にとっての自由とは、私が好きだと思うことをただただ表現すること。
昨日は84歳のアーティストのおばあちゃんのお家で5時間ほどお喋りをさせて頂いたのだけれど、まあその感覚や感性に何度も心が震えた。
人と同じ作品はつまらん、とそのおばあちゃん。その人が爆発的にあふれ出ている作品こそが面白いんだ、とおばあちゃん。
下手とかうまいとかじゃなくて、どれだけエネルギーがその作品に込められているか。
おばあちゃんの家にさる様々な作品は目には見えないけれど本当にパワフルさが出ていて、私の感性を何度もガツンと刺激してくれた。
アートと結構無縁に生きてきたけれど、自分らしく生きるを求める人が多い昨今、注目すべきはアートなんじゃないかと思った。
アートってすごい。生きるも表現であり、アートであり。
ほんと、すごい。

 

フェイスブックを久しぶりに書いたら、何人かがコメントをくれた。
コメントを書くことってきっと5分程度のことなんだろうけど、もうその反応をくれた人が愛しくてたまらなくなった。「反応する」って誰にでも5分で出来る愛だなあと思った。離れていても、近くにいても。その人のこと大好きですよってことを伝える方法って、メールでも電話でもラインでもSNSでももう色々あるんだな。
そんな当たり前のことを忘れていた自分にはっとした、3月最後の日。雨のいちにち。